長州藩士・杉百合之助の次男として生まれます。当時の建物はないが、遺構として敷石が残るほか、隣接して吉田松陰の墓地もあります。
吉田松陰の叔父であり松下村塾(1842年)の創立者・玉木文之進の家。吉田松陰は玉木文之進からスパルタ教育を受けたと言われています。
1854年、黒船に乗って海外密航しようとして失敗した吉田松陰が入獄された牢獄跡。その後に松下村塾を引き継いだ(1857年)。
明治40年に松下村塾出身の伊藤博文らが神社創建を請願し建てられた神社。境内には松下村塾、吉田松陰幽囚ノ旧宅などがあります。
吉田松陰の叔父の玉木文之進が1842年に設立し私塾。吉田松陰が講義をしていた私塾。身分の隔てなく入塾でき、小さな私塾ながらも総理大臣を2人、大臣を4人、県知事を4人輩出した。
木戸孝允(1833年-1877年)。萩藩医の和田昌景の長男として生まれ、桂家(近隣の藩士)の養子となった。幕末には薩長同盟の締結、維新後は五箇条の御誓文、廃藩置県、四民平等、憲法制定、三権分立の確立などを提言し明治政府を支えた。
木戸孝允(桂小五郎)が生まれてから江戸へ旅立つまでの約20年間を過ごした家。
松下村塾の門下生ではなかったが、藩校・明倫館で吉田松陰に兵学を学んだ。
山県有朋は萩の川島地区にて生まれる。現在はその場所に石碑が建てられています。
高杉晋作(1839年~1867年)は、高杉小忠太の長男として生まれ、藩校・明倫館に通いながら、松下村塾でも学んだ。尊王攘夷の志士として活躍し奇兵隊の創設など倒幕に貢献。肺結核のため29歳の若さで亡くなった。
藩の要職を務めてきた名家。現在は1/3程度に縮小されているが、晋作ゆかりの品などを見る事ができる。
萩の平安古にある久坂玄瑞の旧宅跡。現在は石碑が建てられています。
伊藤博文が14歳の頃から一家で居住。伊藤博文が28歳までの14年間暮らした。
隣接して東京都品川区に建てた別邸が移築されています。
49歳で逓信省を退職後に建てられた建物。
桂太郎(1848年~1913年)。萩の平安古にて、萩藩士・桂與一右衛門の嫡男として生まれる。ドイツに留学後に陸軍に入隊。内閣総理大臣を3度(第11・13・15代)務めた人物。拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者。
桂太郎は萩の平安子に生まれ、3歳の時に萩の川島に移り住んだ。この旧宅は晩年の明治42年に新築されたもの。
萩にて夏みかんの栽培を奨励した小幡高政の住居として使用されていた建物。大正になり田中義一が所有し増改築が行われていった。