徳川家康の誕生(1543年)した城。家康が6歳の頃、駿河国の今川氏に従属し今川氏へ人質として駿府へ送られることとなった。
今川氏の人質として駿府へ送られる予定だったが、道中の田原城で裏切りにあい、敵対していた織田氏へと送られた。その後、今川義元が人質として捉えた織田信広との人質交換により家康は今川家に取り戻され、現在の駿府城公園の位置にあった今川氏の館・駿府館で過ごす事となった。
1560年の桶狭間の戦いで今川軍が敗れ、配下で戦っていた家康は大高城から大樹寺に逃げ込み自害しようとしたと言われています。その後、今川家とは決別し岡崎城を取り戻します。
徳川家康は、駿府の武田氏を追放し1585年には駿府城の築城を開始。浜松城から駿府へと移るが1590年に豊臣秀吉により関東に移封された。
徳川家康が京に滞在中の宿所として築城。1603年に入城しその2年後には息子の2代将軍秀忠が踏襲した。
1605年に征夷大将軍職を秀忠へ譲り、1607年に駿府城に隠居。1616年に75歳でここで死去しました。建物は1635年の火災で大半の建物が消失。現在は公園として整備されています。