真田信繁(幸村)
真田信繁(1567~1515年)。戦国時代の英雄として有名な真田幸村。人生の大半は無名な存在であったが、徳川家と豊臣家の最後の戦い・大阪の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い込んだ。その勇猛果敢な戦いぶりは敵方からも賞賛され、一躍名を馳せた。
幸村
真田信繁が幸村と呼ばれるようになったのは、信繁の死後の事。軍記物語などからいつしか「幸村」と呼ばれるようになった。一説では祖父・幸隆、父・昌幸と"幸"の字が一文字入っていること、"村"は信繁の姉・村松からとられたと言われる。
祖父
真田幸綱(幸隆)
(1513~1574年)
武田信玄に仕えていた武将。かつては山内上杉家に仕えていた。
真田家の家紋・六文銭。三途の川を渡るための船賃が六文であることからと言われる。武田家に仕えた時に、覚悟の意味を込めて、この旗印を用いたと云われる。
父
真田昌幸(1547~1611年)
武田信玄・勝頼に仕えていたが、武田氏滅亡後に織田信長の軍門に。1583年に上田城の築城に着手。上田合戦では二度も徳川軍を追い払い徳川家康に恐れられた。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(1600年)では父と共に西軍に加勢。兄・信之は妻が本多忠勝の娘であったため東軍につき、戦後には信濃上田藩の初代藩主となった。
第二次上田合戦
真田昌幸・信繁は居城である上田城に籠り、徳川秀忠の大軍を迎え撃ち(第二次上田合戦)、徳川軍は大敗を喫したと言う。
上田城
元・長野県上田市にある真田家の居城。1585年と1600年の二度にわたる徳川軍の攻撃を退けた上田合戦で知られ、お城ファンが選ぶ好きな城などで1位に選ばれることもある。
九度山(和歌山)に配流
真田昌幸・信繁は一度は死罪を下されるが、兄・真田信之と親戚にあたる本多忠勝の取り成しもあり、高野山への蟄居にとどまった。
蓮華定院
蓮華定院は真田昌幸・信繁の父子が閑居した場所。当時の高野山は女人禁制のため妻達は高野山の麓・九度山におかれた。現在は宿坊として利用できます。
善名称院(真田庵)
真田昌幸・信繁の父子は後に九度山へと移った。善名称院はその草庵跡と伝われる。併設している真田宝物資料館では信繁の武具・書状・肖像画などが展示されている。
約14年間を過ごす事となった九度山での生活は、家臣の家族など含め50人程を養っていたため、兄・信幸に仕送りの催促をするなど厳しかったといいます。
父・昌幸は九度山で病死(1611年)したとされます。
大坂冬の陣
大坂冬の陣(1614年)。徳川と豊臣の関係が悪化。信繁は豊臣方につきます。
真田丸
真田丸とは防御が手薄であった大坂城の南に築かれた出城。真田軍は5,000の兵で徳川10,000の兵を倒したと言われる。
真田の抜け穴(三光神社)
真田丸があったとされる場所。大阪城に通じていたという伝説の抜け穴がある。11月の第1日曜日には開放されます。
大阪夏の陣
大坂夏の陣(1615年)。真田隊の凄まじい攻撃により徳川家康は2度も自害を覚悟したと云われる。
真田信繁(幸村)の最後の地
安居神社
真田幸村の最後の地。徳川家康にあと一歩のところまで迫ったが、追いもどされてしまい、傷ついた身体をここで休ませていたところを敵方の西尾宗次に発見され討ち取られた。
大坂夏の陣図屏風
大坂の陣に参陣した福岡藩主・黒田長政(徳川方)が描かせた屏風。真田信繁の活躍が描かれている。
娘・阿梅
伊達正宗の重臣・片倉重長と真田幸村は大坂夏の陣で敵対関係にあったが、真田幸村は一戦交えた後に自身の子供らを片倉重長に託した。
白石城跡
三女・阿梅は、後に白石城主・片倉重長の後妻となり、真田信繁の次男・守信も片倉家に保護され、仙台真田家として続く事となる。