あらまし
- 1405年 …斯波義重(しばよししげ)により下津城の別郭として築城された。
- 1478年 …守護所がこの地に移転し、尾張国の中心地となった。
- 1555年 …城主であった織田信友が織田信長により殺害され、信長は清洲城に移転。
- 1562年 …織田信長と徳川家康との間で清洲同盟が結ばれた。
- 1563年 …織田信長は小牧山城に移る。
- 1582年 …織田信長が死亡し、清洲会議が行われる。
清洲同盟
織田信長と徳川家康との間で結ばれた軍事同盟。織田信秀(信長の父)と松平清康・広忠(家康の父)が宿敵関係であったことからなかなかまとまらなかった同盟だが、1562年に信長と家康の会見が清須城で実現し締結された。
清洲会議
明智光秀の謀反により、
本能寺では織田信長が死亡(1582年6月21日)、信長の嫡男の織田信忠も
二条城で死亡した。その後、織田家の後継者と領土の配分を決定するために、ここ清洲城に柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、池田恒興の4人が集まり、織田氏の継嗣と領地再分配に関する会議が行われた(1582年7月16日)。
織田家の後継者問題
織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる三法師(織田秀信)を擁立する秀吉との対立。最終的には三法師が後継者として決まった。
柴田勝家と豊臣秀吉の確執
この会議において織田家で最大の発言権を持っていた柴田勝家の力が低下し、秀吉が権力を増すこととなった。そして1583年には羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家により、織田家を二分する戦い「賤ヶ岳の戦い」にへと発展した。