このまえの福岡県志賀島での 空は忘れられない。綺麗
今日行った志賀島(しかのしま)の志賀海神社での一枚。何気なく立ち寄ったけど後で調べたらかなり由緒のあるお社だったよう。
この島、「志賀島」の語源は「鹿島」としたいところですが、「近島」とされています。この島にある「志賀海神社」の「鹿角堂」に大量の「鹿の角」が奉納されています。神功皇后が対馬で鹿狩りをされたのが起源とされていますが、はっきりしません。目的も「祈願成就のお礼」とされるだけです。
1784年に志賀島で出土した漢委奴國王印。 この印は後漢書の記録により後漢の光武帝が建武中元2年(57年に奴国へ贈った(この場合は下賜かな?)モノだと言う事が判っています。 さらに邪馬台国の女王卑弥呼には親魏倭王の金印が魏の皇帝から贈られています。 つづく
「海の中道」が帯のように伸びてその箸に志賀島の山が海に浮かびその左の方には残島がかすむ眺望のきれいなところである。この海岸を香椎潟といった。昔の橿日の浦である。太宰帥であった大伴旅人はここに遊んで「いざ子ども香椎の潟に白砂の袖さえぬれて朝菜摘みてむ」(万葉集巻六)と詠んだ|点と線
海の中道に志賀島、油山、能古島。いずれも市の中心部から1時間足らずで行け、安価で自然を満喫できる。これは福岡という街の大きな魅力だと思う。
57年、奴国、後漢に遣使。『漢委奴国王』金印を受け取る。
「漢委奴国王の金印を見つけた農夫の名前は何でしょう。答: 甚兵衛」って、迷問・珍問で有名やけど結局どこの入試問題やったっけ
昨日初めて行った志賀島。こんなちっさい島で金印が見つかったんですね。取り敢えず海越しの夜景は綺麗でした。
後漢書東夷伝には、奴国王が後漢に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の印綬をいただいたと書かれております。
このまえの福岡県志賀島での 空は忘れられない。綺麗
今日行った志賀島(しかのしま)の志賀海神社での一枚。何気なく立ち寄ったけど後で調べたらかなり由緒のあるお社だったよう。
この島、「志賀島」の語源は「鹿島」としたいところですが、「近島」とされています。この島にある「志賀海神社」の「鹿角堂」に大量の「鹿の角」が奉納されています。神功皇后が対馬で鹿狩りをされたのが起源とされていますが、はっきりしません。目的も「祈願成就のお礼」とされるだけです。
1784年に志賀島で出土した漢委奴國王印。 この印は後漢書の記録により後漢の光武帝が建武中元2年(57年に奴国へ贈った(この場合は下賜かな?)モノだと言う事が判っています。 さらに邪馬台国の女王卑弥呼には親魏倭王の金印が魏の皇帝から贈られています。 つづく
「海の中道」が帯のように伸びてその箸に志賀島の山が海に浮かびその左の方には残島がかすむ眺望のきれいなところである。この海岸を香椎潟といった。昔の橿日の浦である。太宰帥であった大伴旅人はここに遊んで「いざ子ども香椎の潟に白砂の袖さえぬれて朝菜摘みてむ」(万葉集巻六)と詠んだ|点と線
海の中道に志賀島、油山、能古島。いずれも市の中心部から1時間足らずで行け、安価で自然を満喫できる。これは福岡という街の大きな魅力だと思う。
57年、奴国、後漢に遣使。『漢委奴国王』金印を受け取る。
「漢委奴国王の金印を見つけた農夫の名前は何でしょう。答: 甚兵衛」って、迷問・珍問で有名やけど結局どこの入試問題やったっけ
昨日初めて行った志賀島。こんなちっさい島で金印が見つかったんですね。取り敢えず海越しの夜景は綺麗でした。
後漢書東夷伝には、奴国王が後漢に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の印綬をいただいたと書かれております。