出生
源義朝(よしとも)の九男であり幼名は牛若丸(うしわかまる)。鎌倉幕府を開いた源頼朝は三男で8歳違いの異母兄弟。
父・義朝(よしとも)は平治の乱(1160年1月19日)で敗れ処刑された。義経の母である常盤御前は子供達の助命を請い、義経は鞍馬寺(京都) に預けられる事になった。
良く知られている義経の人生の足跡はだいたいこんな感じ。
京都→奥州平泉→源平合戦勃発→京都・鎌倉→吉野(奈良)→奥州平泉
1159年に生誕、1189年に平泉で自決。
幼少
鞍馬寺
義経が7歳(説による)から16歳頃までを過ごした寺。僧になる修行をしていたが、自身の出自と父の無念の死などを知り、僧になる事は望まなくなったと言われる。
義経公背比べ石。鞍馬寺の奥の院参道にある石。奥州へ下る義経は、名残を惜しんでこの石と背比べをしたと伝わる。
首途八幡宮
鞍馬寺で修行をしていた源義経が奥州平泉へ出発する際に道中の安全を祈願したと伝わる社。
奥州平泉
平泉
奥州と京都を行き来していた奥州の大商人・吉次に付従い、平家の支配する京都を脱出。当時繁栄を誇っていた奥州平泉へと向かった。
平泉では、奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受け過ごす。
源平合戦
1180年 後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発する。
兄・源頼朝は伊豆国で挙兵し、源義経と藤原秀衡の部下数十騎が同行し呼応。
頼朝と義経は黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で対面。
1183年7月、破竹の勢いで京都に進軍する木曾義仲を前に、平氏は京都を断念し、平清盛の孫・安徳天皇と三種の神器を持ち西国へ逃れる。
神泉苑(京都)
天皇や公家が遊覧していたと言うかつての大庭園。源義経と静御前が出会った場所とも言われる。
後白河法皇は雨乞いのため、神泉苑の池で100人の僧に読経、100人の白拍子に舞わせた。静が舞いだすとたちまち雨が降り、3日間降り続いたと言われる。
1184年。頼朝の代官として京都にいた義経は河越重頼の娘・郷御前を正室に迎える。
屋島
西国に逃れた平氏は最終的に当時は孤島であった屋島(香川県)を本拠地にした。1185年3月、義経は嵐の中奇襲をかけ平氏を壇ノ浦へと追いやった。
壇ノ浦
1185年4月。源平合戦の最後の舞台「壇ノ浦」。まだ幼い安徳天皇と三種の神器の一つ・草薙剣が海に沈んだ。
鎌倉
源平合戦の後、頼朝の怒りを買った義経は、鎌倉入りを止められ腰越に留まった。その時、満福寺で心情・弁明を綴った手紙(腰越状)を書いた。
満福寺
1185年6月。源義経が腰越状(こしごえじょう)を書いたとされるお寺。弁慶によって書かれたと伝わる腰越状の下書きが展示されている。
頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いでの独断専行によって頼朝の怒りを買ったとされる。
奈良・吉野
1185年10月、頼朝は義経討伐を決め、義経は弁慶、正室の郷御前(さとごぜん)、愛妾の静御前等を連れて吉野に身を隠した。
金峯神社
追っ手に囲まれ、隠れていた源義経が屋根を蹴破って逃げたといわれる「義経隠れ塔(蹴抜塔)」がある。
吉水神社
義経は静御前や弁慶らとともにこの吉水神社で数泊した逸話で知られる。 源義経の鎧、静御前の衣装、義経潜居の間、弁慶思案の間などが所蔵されている。
義経と静御前はこの吉野の地で別れ、弁慶とともに平泉(岩手県の)へと逃げ延び、静御前は捉えられ鎌倉へと連行された。
鶴岡八幡宮の舞殿
鎌倉に連行された静御前は、鶴岡八幡宮の舞殿で義経への心情を舞ったという。
平泉
高館義経堂
源義経の最期の地と云われる場所。平泉に落ち延びた源義経は奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡に庇護され、この地に居館を与えられた。しかし秀衡の跡を継いだ四代目・泰衡は、源頼朝の圧力に屈し、義経の居館に攻め込み、ついには自害へと追いやられた(1189年)。
その他
自刃したとされたとされる義経は、実はその後も生存し北へ逃げ延びたという伝説が東北各地に残っています。
神威岬
北海道の積丹にある岬。義経はアイヌの首長の娘シララと恋に落ちたが、義経一行は旅立ち、後を追った娘が海の彼方へ去った義経を知りこの海に身を投げたと云われる。